strawberry 1
人が流れる歩道の中で、タバコの香りにつられてふと立ち止まる。
街を歩いていると、ときどきこんな風に甘い匂いが鼻をくすぐることがあった。甘く煙たいストロベリーの香り。普通に歩いていたら見過ごしてしまうような、そうでなくても数歩のうちに意識の外へ追いやられるような、かすかな心地よさが私の足を止めた。
私はこの匂いを知っている、と思った。鼻をすんと動かしているうちに、さっきまで食べていたサンドイッチの香ばしい匂いなんて全部吹き飛ばされてしまう。もやのかかった空気の中で、私は煙に包まれたあの頃の甘いひとときを思い出していた。
ぼんやりとした頭のまま、煙の立つ向きを探してゆっくりと辺りを見回す。昼休みのビル街は憩いを求める人でいっぱいで、後ろを急ぎ歩くサラリーマンが一人、軽く舌打ちをして通り過ぎていく。普段なら後ろから睨みつけながら舌打ちを返していたところだけど、今はただ生き急ぐ時間の流れを傍観する感覚に身を委ねていた。
おそらくこの甘い香りを漂わせているのは、そばにある喫煙所だろう。明るい緑色に塗られた柱に、上半分がフロストガラスで囲まれた半透明のシェルターは、彼らの身なりをそのままに顔だけを隠している。まるで犯罪者か風俗嬢みたいだな、と思う。
その区画のすぐ外で、出入り口近くの柱に寄りかかっている同い年くらいの女性が目に入った。片手に持ったスマートフォンを不機嫌そうに覗き込み、いらいらした様子を隠さない。
喫煙所は禁煙の波に追いやられた人でごったがえしていて、とりわけ奥はスーツ姿のおじさんばかりだ。きっと、大きな肩に挟まれた窮屈な空間でタバコを吸うのが嫌なのだろう。その気持ちは分からなくもないけど、マナーの悪い女だなと思う。
甘酸っぱいストロベリーフレーバーをくゆらせているのはこの人だ。
ウェーブのかかった茶色いロングヘアーにクールな瞳が隠されて、時折空を見つめながら煙を吐いている。サイケデリックなテディベアの写真が縦横にプリントされた趣味の悪いシャツに、くすんだ青のブルゾン。ライトブルーのデニムと紐の汚れた黒のスニーカーに寄り添うピンクのスケートボードは、そのフットワークの軽さを物語っている。およそ会社勤めには見えないし、下手をすると大学生ですらないかもしれない。
吸って、吐いて、画面をなぞる……その動きがいちいち気だるげで、あくせくと流れる時間から浮いて見える。
どうしてみんな、タバコを不味そうに吸うんだろう。まりっぺもそうだった。身体中にもくもくとした煙をまとって、そこから何が見えるのだろう。
その様子をしばらく眺めていると、彼女はまだだいぶ残った吸いさしを口から離して、足早に喫煙所の中へと向かっていった。頭一つ小さなデニムパンツが灰皿まで駆け寄って、吸殻を突っ込んでから出てきたと思うと、立ち止まっていた私に視線を向ける。慌てて目を逸らすけど、誰も寄せ付けまいとする視線は確かに一瞬私を貫いていた。
しかし、彼女は自分が観察されていることを意に介す様子もなく、スケートボードに乗って線路沿いの裏通りに消えていった。
ストロベリーの残り香が、少しずつ灰色の煙に追い出される。ぼんやりとした懐かしさがコントラストを失って、そのまま現実に戻されていく。彼女の痕跡はもう私の記憶にしか残っていないのに、どうしてか私はその場から動けずにいた。
どうしてだろう? スケボーの彼女の視線に、まりっぺと同じものを――もしかしたら、まりっぺの面影を感じていたのかもしれない。私の隣では、いつもこの甘い匂いがしていたから。
secret 1
私がまりっぺの「秘密」を知ったのは、高校二年の冬のことだった。
今でもよく覚えている。寒さと暖かさが曖昧になった放課後の穏やかな日差し。柱の向こうから聞こえる砂利を踏みしめるさくさくとした足音。そしてあの、ストロベリーの甘い香り。普段よりも少し強い風が、まりっぺの吐いた煙をそのまま私に届けてくれたのだ。
「ね、ねぇ赤沢さん? それ、タバコ……だよね?」
「あら、C子だったの」
まりっぺは突然の邂逅に驚く様子もないまま、顔をちらと覗いてから私の名を告げた。誰か――つまり、私の気配はもう感じ取っていたらしい。火を着けたタバコを隠す様子もなく、軽く目を閉じてまた口元に運ぶ。細い芯の中を走る煙を優しく吸って、口からもくもくと吐き出した。
腰まで伸びたロングヘアは二つにまとめられていて、上を向いてふぅ、と息を吐くたびに、その動きに合わせてゆらゆらと揺れる。青みがかった煙が風に流されて、その綺麗なツインテールと混じり合っていくように見えた。煙がかき消えるとまたふわりと甘い香りが漂って、私の視界にぼんやりともやがかかる。
タバコってツンとした嫌な匂いのものばかりだと思ってたけど、こんなに心地いいなんて。いつものタバコが灰色の匂いだとしたら、これはまるでピンク色の匂いだ。
煙と一緒にゆったりとした時間が流れていく。それは窓際の机でまどろむ放課後よりも、駅のベンチで次の電車を待っているときよりも、もっとゆったりとしていておぼろげな時間だ。ずっと向こうに部活の練習風景が聞こえてきて、まるでここがいつもの学校から遠く離れた場所のように思えてくる。
そうして煙が消える様子をひとしきり眺めていたまりっぺは、しばらくしてから私に向き直った。
「それで、何か用? さっさと先生に言いに行ったら?」
「ち、違うよ。私、そんなつもりで来たんじゃない」
もちろん、私が補習をサボってまで校舎裏に回り込んだのは偶然ではない。まりっぺの後ろ姿を追って歩いていたからだ。でも、決して彼女の喫煙を咎めるつもりで尾けていたわけではない。まるで路地裏をするすると歩く猫に導かれるように、奇妙な魅力が私を支配していたのだ。
姿を見せちゃいけない、と思った。尾行に気付かれたら、まりっぺが私をスパイとして疑うのは当然だったから。
それなのに、いつの間にか足が前に出ていた。甘い香りにつられるように、格好悪く彼女の前に姿を表してしまった。それは、喫煙という意外な光景を目撃したせいでもあるだろうし、ただ彼女に私の存在を示したかったからかもしれない。私だけは味方だよ、とでも言うように。
「そう。別に、何でもいいけど」
壁に寄りかかったまりっぺが私を見下ろす。ふわりとしたスカートの裾が、薄い太陽の光で綺麗なグラデーションを作り出していた。
まりっぺ(当時は赤沢さんと呼んでいた)は、私のクラスメートだ。背の高いまりっぺのスカートから伸びた脚はすらっと長くて、廊下ですれ違うたびに目で追ってしまうくらい。歩く姿も美しくて、細やかな動き一つ一つにまりっぺの意識が込められているのが分かる。
同じ制服を着ているはずなのに、ちんちくりんの私とは何もかもが違う。背伸びすればやっと追い付けるくらいの意志の強い瞳が、整った顔の魅力をさらに高めていた。
「でも、どうしてタバコなんて……」
「吸いたくなったのよ。そんなに変?」
「だって、見つかったら退学だし」
「いいのよ、別に。高校なんて」
まりっぺはそう言って、またタバコを口にくわえた。
悪い事をしているはずなのに、彼女は逃げも隠れもせずに私の前に立っている。私を脅すわけでもなく、自分の「非行」を隠すわけでもなく、その姿はまるで駅前のカフェで紅茶を飲む時のように落ち着いていた。
どんな言い訳をしたって喫煙は喫煙だ。咎めなきゃいけない行為のはずなのに、今はその姿がなぜだかとても綺麗に見えた。
「タバコくらいで騒がないでよ。私のことなんて誰も見てないわ」
「……私、赤沢さんのタバコのこと、もう知ってるけど」
「脅しのつもり? 言ってるじゃない、高校くらいやめてもいいって」
鋭い視線が私を貫く。
高校くらいやめてもいい、なんて。私にはまりっぺの気持ちが分からなかった。高校進学を選んだ私たちの人生は、おそらく中卒なんて考えられていないから。少なくとも、私にとってはそうだ。だから、まりっぺにもそんな人生を送ってほしくはない、と思っていた。
でも、迷いも不安もないまりっぺの目を見ていると、その押し付けがましい親切心に彼女を巻き込むのが本当に正しいのか、分からなくなってしまう。
「そ、そうじゃなくて……」
「はっきりしなさいよ。これをネタにして、脅すつもりなんでしょ?」
これ、と言いながらまりっぺが火の付いたタバコを目の前に突き出した。まるで、常識に縛られた空っぽな自分を見透かされているような気がして、私は思わず目を逸らしてしまう。
私は彼女の視線から逃げるように、タバコの先から出る煙をじっと見つめていた。そうして黙ったままでいると、まりっぺは小さく溜息を吐いて、ブレザーのポケットからボタンの付いた黒い革のケースを取り出す。
「……もういいわ」
不機嫌そうなまりっぺは、彼女に似合わない無骨な携帯灰皿に吸い殻を押し込んで、そのままこの場から立ち去ろうとする。ざくざくとした足音がだんだん遠くなって、少しづつありふれた日常の空気が戻ってくるのを感じていた。張り詰めた空気が少しずつ緩んで、身体から力が抜けそうになる。
今何か言わないと、まりっぺはもう私を見てくれなくなってしまう、と思った。
「ち、違うよ!」
地面をぐっと踏みしめた勢いで、思わず大きな声が出てしまう。まりっぺが足を止めてから、これが秘密のやり取りなんだと思い出して、意味もなく口に手を当てる。振り向いたまりっぺと目が合って、彼女はふふっ、と小さく笑った。
「でも、もう学校では吸わないで」
「あら、学校じゃなきゃいいってこと?」
「うん。私……赤沢さんに、学校やめてほしくないから」
そう告げながら、私は思わずまりっぺの手を握っていた。突然距離を詰めた私に、まりっぺは戸惑いの表情で私を見つめるだけで、驚いた声さえも上げられない。
「ねぇ、赤沢さん。やめないで」
これは私のわがままだ。分かっていた。まりっぺが高校をやめて困るのは、私の方なのだ。もし今日、校舎裏で彼女を見つけたのが私でなかったとしても、まりっぺには何も気にしないだろうから。まりっぺは、誰の救いも求めていない。まりっぺを救うふりをして、本当は私が救われたいだけなのに。
まるで、プロポーズでもした後のような長い沈黙が流れた。私の告白じみたお願いを、まりっぺはどう思っているだろうか。私の髪が揺らした風が、まりっぺのスカートも揺らしていく。その一瞬一瞬が恥ずかしかった。
「私のことは私が決めるわ。でも、C子が私を守りたいなら、勝手にして」
ひんやりとした手が心地いい。まりっぺはいつの間にか不意打ちに崩されたはずの冷静さを取り戻して、私をじっと見つめている。
「……うん。ありがとう、赤沢さん」
受け入れるわけでもなく、突き放すわけでもない。まりっぺらしいその答えが何度か私の頭の中を駆け巡って、やっと実感と共に私の顔を熱くする。まりっぺと私だけの秘密ができたこと。まりっぺと手を繋いでいること。私がまりっぺに受け入れられたこと。突然訪れた幸せが、私を包み込んで離さない。
結局、まりっぺが連絡先を交換しようと告げるまで、私たちはずっと見つめ合ったまま手を繋いでいた。まるで恋人みたいに。
まるで、恋人みたいに。
校舎裏での出会いから数日が経った。昼休みの教室はざわざわとした取り留めのない会話で満ちていて、とにかく落ち着かない。年度末の浮ついた解放感がひしひしと伝わってきて、今の私には鬱陶しく感じられる。こういう微妙な気分のときには図書室に行くに限るんだけど、まりっぺとのこともあってなかなか動けずにいた。
教室でのまりっぺは、いつもと変わらず私の三つ後ろの席で静かにファッション誌を眺めている。教室に出入りするたびにちらりと彼女の方を見ていたけれど、目が合うことはなかった。私を信頼してくれているのか、それとも……本当に、高校をやめるつもりなのか。
いや、私はちゃんとまりっぺを守ると「約束」したんだ。まりっぺが学校をやめたりしないように。まりっぺの綺麗な姿を、私と彼女の静かな時間を、誰にも見せないために。だから、まりっぺがいなくなるなんてありえない。
でも、私はどうやってまりっぺを守るつもりなんだろうか。まりっぺに頼られたって、停学さえ覆すことはできないのに。できることなんて、タバコを吸っているときの見張り番くらい。私がまりっぺと一緒にいる価値があるのは、煙たくて気持ち良いあの場所にいるときだけ。私たちの関係は、密かに立つ煙と同じくらいに儚くて弱々しいのだ。
まりっぺは高校くらいやめてもいい、と言っていた。私の動きに関心がない様子を見ると、それは本当の気持ちなのだろう。でも、学校をやめてどうする気なのか、親にはどう説明するのか……そこまでは、現実味がなくてイマイチ想像が付かなかった。つまり、みんなが選ばないような生き方に向き合いつつあるまりっぺの後ろ姿が、少し怖かった。
「まりりーん。何読んでるの?」
そんな考えを巡らせながら窓の外を眺めていると、後ろから耳障りな声が聞こえてくる。こんな時でも、B子はやはりまりっぺに馴れ馴れしい。
「今月号のロルムよ。春の新作をチェックしてるの」
「えー、遅くない? 私、もうめぼしいのはいくつか買ってるよ」
「そうなの? どこのブランド?」
「まぁ、――とか、――くらい? そんなに追ってるわけじゃないけど、教えてあげよっか?」
「そうね、――は――だけど……私は――だから、別にいいわ」
同じクラスのB子は、性格の悪い女だ。気の強そうな顔に、わざとらしくてうるさい声。下品に着崩した制服は似合ってないくせに自信たっぷりで、自分が一番可愛いと思ってるのが透けて見える。まりっぺの足元にも及ばないくせに。
それに、まりりん、だなんて馴れ馴れしいあだ名を使うのだ。まりっぺと秘密の約束をした私でさえ、まだ名前さえ呼べていないのに。なんて図々しいやつなんだろう。取り巻きとばかり遊んでいるから、他人との距離感も分からないのだ。
きっと、まりっぺだってうんざりしてるに違いない。
B子はまりっぺが怖いんだ。B子をちやほやしないどころか、自分に集まるはずだった視線さえも奪いかねないまりっぺ。そんなまりっぺが自分に見向きもしないとなれば、どうにか興味を引こうとするのかもしれない。所詮、まりっぺの魅力には勝てないのに。
そんなB子が上から目線でまりっぺに突撃していくのを見ると、腹が立って仕方ない。いつも周りにお友達を連れて楽しそうにしているんだから、そいつらと遊んでいればいいのに。
「でも、まりりんにはこういうのも似合うと思うよ。どう、これとか?」
「え、えぇ……ありがとう。参考にするわね」
いらいらする。後ろを向いてB子を睨みつけてやろうか。そう思いながら、解く気もしない問題集のページの端をこつこつとシャーペンで何度か叩いていると、芯がぱきりと折れてしまった。
「……はぁ」
でも、今は落ちてしまった小さな欠片に気をかける余裕もない。私は溜息を吐いてから、芯のないシャーペンをまたかつかつと紙に叩きつける。
おい、まりっぺが迷惑そうにしてるだろ。笑うな。喋るな。出てけよ。……今すぐ立ち上がってB子にそう突きつけることができれば、どんなによかったろう。でも、そんなことを叫んだら、まりっぺはどう思うだろうか。タバコを吸っていない彼女に、私は何ができるだろうか。
だって、私とまりっぺは灰色の糸で結ばれているのだ。手繰っているうちに広がって消えてしまいそうな、煙のように弱々しい糸で。不意に風でも起こしてしまったら、その糸はぷつりと切れてしまうだろう。それが怖くて席を立つことすらできずにいた。
「それでさー、まりりん。放課後、カラオケ行かない? 今日は――と――と、あと――くんも来るんだけど」
「うーん……ごめんなさい。今日は家の用事があって」
「この前もそう言ってなかった? せっかく誘ってるのにさ〜」
それから、B子は仲の良い友達みたいにへらへらと二言三言発した後、「じゃあね、まりりん!」と言って教室を去っていく。
B子が退散するのを横目で見届けて、私は正直ほっとしていた。まりっぺの作り笑いを見たくないのに、私には見ていることしかできないから。静かに身を守ろうとしている自分のことを、じっと見つめていたくはなかったから。
「私、赤沢さんのこと、やっぱ苦手だわ」
「Bちゃん、落ち着いて。ここ、一応学校のトイレなんだし」
B子はまりっぺにあしらわれた後、決まってトイレで取り巻きにまりっぺの悪口を吹き込むのだ。今日も例に漏れず、怒りに任せてまりっぺの悪口をあることないこと言いふらして、取り巻きその一に宥められていた。私は個室でその様子を聞きながら、じっとB子の愚かさを実感している。
「でもさー、私、仲良くしようとしてやってるんだよ?」
「Bは優しいなぁ。私、顔に出ちゃうからそういうことできないもん」
「あーゆーのは、どこに行っても一人だよ。マジでイタすぎ」
取り巻きその二におだてられて、B子は言いたい放題だ。顔は見えないけれど、その醜悪な表情は簡単に想像できる。まりっぺの孤独な様子を指差して、私たちは仲間でよかったねと確かめあっているのだ。まりっぺは自分で一人を選んでるのに。お前らみたいに群れる必要がないだけなのに。
B子は窘められたり煽られたりしながら、まりっぺの悪口を繰り返す。容姿のこと、ファッションのこと、嘘ばっかりだ。まりっぺのことなんて全然知らないくせに。
話しているうちにB子は興奮してきたのか、途中から「赤沢」と呼び捨てにし始めていた。「まりりん」だなんて寒気のする甘い声は全部演技で、こうやって取り巻きの前で調子に乗るのがB子の本性なのだ。
「ねぇ、C子! あんた、赤沢のこと好きでしょ?」
と、突然B子に名前を呼ばれて、身体をびくつかせてしまう。いつの間にか尾行に気付かれていたらしい。彼女たちから私の姿が見えていないのは分かっていたけど、少しでも物音を立てたら動揺が悟られてしまうと思った。黙ってやり過ごそうと思いながら身体を縮こめていると、勢いづいたB子はさらに言葉を続ける。
「私が赤沢の悪口を言うの、いつも聞きに来てるよね。告げ口でもしてんの?」
「えっ……C子ってそうなの?」
「ねー、どうなの?」
まりっぺがお前らみたいな卑怯な真似をするわけがない。告げ口なんて頼まれるものか。根拠のないまりっぺの悪口に一つ一つ反論してやりたい気持ちはあったけど、三人を相手にはっきり自分の言葉を伝えるような勇気はなかった。
と、出るに出れない空気の中、突然ポケットの中で何かが震える。着信だ。気付かれないようにそっと携帯を取り出すと、通知欄が「赤沢まり」と白く光っているのが分かった。
【今日、付き合ってくれる?】
どうしてまりっぺからメッセが? そうだ、この前連絡先を交換したんだった。突然の出来事に、少し混乱する。初めて私に送られた短いメッセージを何度も読み返しているうちに、まりっぺの「今日は家の用事があって」という言葉を思い出して、顔が熱くなった。
「ご、ごめん。ちょっと行かなきゃいけないから!」
私は個室の扉を開けると、いつの間にか走り出していた。後ろから聞こえる「おい、待てよ!」という声がなぜか滑稽に聞こえて、妙な笑いがこみ上げてくる。
お前らにまりっぺの魅力が分かるかよ。まりっぺのことを知ってるのは私だけなんだ。分かってあげられるのは私だけなんだ。心の中でそう唱え続けているうちに、B子のことなんか気にならなくなっていた。
nickname 1
それから私は、いろいろな場所でまりっぺの「非行」に付き合った。マンションの非常階段、人気のない公園の隅、手入れされていない神社の裏――当然、そういう場所ではいつも二人きりだ。ネットで調べたところ、何度も同じ場所を使わないのがコツなんだという。場所選び以外に人目を避ける特別な対策はしてこなかったけど、幸いなことにこれまで喫煙の現場は見つからずに済んでいた。
夕日が当たる古い団地の屋上は、色々なものの時間が止まっている。建材はまだらに黒ずんでおり、所々に錆が流れ込んでマーブル模様を作っていた。雨が降ると隅に集まったごみがまた広がってしまうから、今日みたいな晴れ続きの日にしか使えない。コンクリートの床材や貯水槽の鉄骨が濡れていると、まりっぺは嫌な顔をした。
まりっぺの隣でリラックスしきれない私と、私の隣で悠々とタバコをくわえるまりっぺ。微妙に噛み合わない二人の間は、いつしか沈黙で満たされていく。私はそのぎこちない空気が初々しい恋人同士みたいで好きだったし、まりっぺも、そういう奇妙な静寂を楽しんでいたと思う。週に二度か三度は、こうして青春の黄昏みたいな時間を静かに過ごしていた。
まりっぺは、タバコを吸いながら私にいろいろなことを話してくれた。
「私、モデルになりたいの」
ロリータファッションが好きで、昔から自分で服を作っているらしい。既製服の可愛いポイントを取り入れつつ、高身長を活かしてオリジナリティを模索している、とか。ロリータのことはよく分からない。
今日は、裾にぐるりとチェリーが散りばめられた黒いワンピースだ。首元にはU字に大きく白いフリルが入っていて、金色のボタンがよく目立つ。大きなリボンはスカートと同じチェリー模様で、まるで綺麗な返り血みたい。ツインテールを留めるシュシュは服に合わせた白黒で、そこにストロベリーのチャームを添えてシックな色合いをカバーしている。
確かに、まりっぺのファッションへのこだわりはすごいと思う。私は動きやすいようにデニムとスニーカーで付き添ってるけど、まりっぺは何度言ってもふわりと広がるロングスカートだけは絶対に譲らないのだ。逃げやすさのことは二の次らしい。「見張りのあなたが動ければ、それでいいじゃない」なんて言われちゃったら、何も言い返せない。
相槌を打ちながら、ぼんやりと横顔を眺める。夢の話に興じるまりっぺは、いつになく楽しそうだった。
「だから、本当は高校なんて行かなくてよかったのよ。でも、パパが許してくれなかったから」
まりっぺの夢を知ってもなお、せめて高校はちゃんと卒業するように言われたらしい。まりっぺがモデルになって失敗するわけなんかないのに。
どこも一緒だ。
母には、どこでもいいから大学は出ておいたほうがいいと言われていた。だから、私はその言葉を自分が立てた目標だと思い込みながら、なんとなく高校生らしい生活を送ってきたつもりだった。なんとなく行けそうな大学を選んで、それなりに勉強して合格する。夢とか人生のことはその後で考えても遅くない。それでなんとかなるはずだった。
そんな私が、今はまりっぺの隣で非行のお手伝いだなんて。
それにしても、モデルになるなら、なおさらタバコは吸わないほうがいいんじゃないだろうか。未成年喫煙のせいでミラクルティーンを降ろされたモデルもいるらしいし。
「私に指図しないで。タバコを吸ってるモデルなんて世界にはたくさんいるわ」
まりっぺはいらついた声でそう言ってから、いつもより少し長い吸い殻を灰皿にしまいこむ。普段ならもう一本という場面だけど、私が水を差してしまったせいで小休止となった。
怒っているかもしれない、という私の微妙な意識のせいで、この沈黙が苦しく感じられる。たぶんまりっぺはもう気にしていないし、ぐちぐち責め立てる気もないことは分かっているのに、心地いいはずの静かな空気が逆に私を締め付けていた。
「ご、ごめん……うん。赤沢さんなら、きっとなれるよ」
「うん、ありがと。嬉しいわ」
まりっぺは手持ち無沙汰な風に明るい水色のシガレットケースを弄ぶ。薔薇の刺繍をあしらったおしゃれなケースだ。古着をリメイクしたポーチやミニティッシュケースをいくつか持っていたから、これもおそらく手作りなのだろう。
「ねぇ、C子の夢は? 教えてよ」
ちょうどタバコを一本吸い終えて、まるで次はあなたのターンよとでもいうように私に向き直る。私の夢? そんなの、このまま普通に高校に通って、卒業して……それから? それから、私は何をしたかったんだっけ?
とりあえず申し込んだ進学希望者向けの補習には、彼女と「約束」したあの無断欠席の日からもう行っていない。最初から強い目的意識もなくだらだら通っていただけだから、足を止めるのは簡単だった。三回休んだあたりで担当の数学教師に呼び出されたから、進路を迷い始めたのでしばらく行けません、と伝えて後は知らんぷり。
悪い意味でただ前に進み続けていた私にとって、そういう嘘を吐くのは新鮮で、少し息苦しくもあった。でも、まりっぺの隣にいられるなら、もう受験さえもどうでもよかった。この瞬間は、確かに私の意志で選び取ったのだから。
いつの間にか、私の生活はまりっぺを中心に回っていた。自分の夢なんて考えるのを忘れてしまうくらいに。
でも、まりっぺはどうだろう。みんなの視線を集める世界的なモデルになって、颯爽とランウェイを歩く……そんな彼女の夢の中に、きっと私はいない。私は、テレビの前で彼女の凛とした姿に見とれることしかできないだろう。まりっぺに視線を送る大衆の一人として。
まりっぺが高校をやめてしまわなければなんでもよかった。あの時は、それが一番の目的だったから。でも、タバコだって、私たちはすぐに堂々と吸える年齢になる。そうしたら、私とまりっぺの「約束」は終わってしまう。喫煙を言い訳にして彼女に寄り添い続けても、必ず終わりが来てしまう。
「私は……まりっぺと一緒にいたい」
「ま、まりっぺ?」
「ねぇ、まりっぺ。まりっぺは、ずっとこうして私と一緒にいてくれるの?」
「落ち着きなさいよ。C子、痛いわ」
いつまでも一緒にいて、私を置いていかないで、私も連れていって……と心の中で叫んでいるうちに、ざらざらとしたコンクリートの床に手のひらが擦れる感覚がして、その痛みで我に返る。
「ねぇC子、あなた大丈夫?」
「うぁ……」
まりっぺが私を見下ろしていた。一方の私は、バランスを崩して尻もちをついたらしい。その拍子に手が擦れたのだ。まりっぺは自分の身体を抱くように立っている。じっと警戒する様子を呆けた顔で眺めているうちに、まりっぺの肩を強引に掴んでいたことを思い出した。
「ご、ごめんね……ごめん、赤沢さん。私ってば、なんてことを……」
焦りと混乱で動けない私は、へたりこんだまままりっぺを見上げている。ちょうど夕日が沈む頃で、まりっぺの後ろから燃えるような夕焼けの光が差していた。彼女の脚から伸びた長い影が、私の上をぐにゃりと曲がって逃げていく。
「あなたの夢、訊いちゃいけなかった?」
「ち、違うの。ただ、私、怖かったから……」
心配そうに私の顔を覗き込む。怖かった、という気持ちに間違いはないけれど、きっとまりっぺには伝わらないだろう。彼女との将来を悲観していた、なんて。でも、それでよかった。まりっぺの邪魔になるような思いを伝える意味はないし、結果の分かっているような告白をしたくはなかったから。
まりっぺは少し首を傾げてから「それなら、いいんだけど」と言って、私に手を差し伸べる。そして、立ち上がった私にタバコを差し出した。
「夢なんて、すぐ見つかるわ。一本吸ってみる? 気分がよくなるわよ」
やっぱり、まりっぺには私が夢を見つけられなくて焦っているように見えたらしい。あながち間違っているわけではないけれど、こればかりはタバコを吸ってもどうにもならない。
まりっぺのタバコは、特別なタバコなんだという。タバコ屋さんでは手に入れられない特別なタバコだから、とっても美味しいのよ、と指を揺らす。
「特別、って?」
「特別は、特別よ。こうやって付き合ってくれてるあなたも、特別よ? 特別だから、あなたにもあげるの」
私はタバコに詳しくないから、美味しいと言われてもよく分からない。でも、普通のお店で売ってもらえないのだから、当然誰かから譲ってもらうことにはなるだろう。だから、特別と言っても、単に協力者がどこかから仕入れてまりっぺに渡しているだけなんだろうなと思った。
でも、協力者って誰?
麻薬の売人というのは聞いたことがあるけれど、未成年にタバコを売り捌くのは、もっと違う存在だろう。まりっぺと仲が良くて、まりっぺが困った時に頼っているような、もっとプライベートな協力者――私よりも頭が良くて、頼りがいのある誰か。
革の携帯灰皿のことが頭をよぎった。まりっぺが、私以外の誰かに頼ってる? そんなの、嫌だ。まりっぺとのさよならを覚悟しているはずなのに、私は「特別」という言葉に嫉妬していた。
彼女が気まぐれで与えてくれたこの時間のせいで、私以外にも向けられた「特別」に、どうしようもない敵対心を抱いている。まりっぺの「特別」は嬉しいけど、私だけの「特別」じゃない。抑えられない独占欲の自覚が、さらに私を惨めな気持ちにしていた。
「でも……」
改めて、まりっぺが差し出したタバコを見つめる。いざ吸い口を向けられると、非行をしているという現実感がどっと私に襲いかかってきた。
もちろん、彼女のタバコを見逃してあまつさえこうして今まで付き合ってきたことは、立派な非行だろう。でも、自分が本当にタバコに手を付けるところを想像すると、ドキドキして手の先が冷たくなった。まりっぺと同じ香りが身体中に巡る高揚感と、非行に手を染める興奮が一緒になって、太ももの辺りがぞくぞくとした。
「ま、そうよね」
そうして逡巡しているうちに、まりっぺは差し出したタバコを自分の口に戻してしまった。そして、くわえたタバコに火を付ける。私はライターを持っていなかったから。
「ほら、C子。こっち」
「ど、どうしたの、赤沢さ――ん、むっ!」
私を呼ぶ声に反応して歩み寄ると、まりっぺは私を優しく抱きとめて唇を重ねた。まりっぺの吐く息は甘くてピンク色で曖昧で、それだけでもう何も考えられなくなる。頭がストロベリーの煙で満たされていくうちに、目の前にいる彼女の表情はよく見えなくなって、今なら殺されたって分からないだろう。
何秒か、何十秒かそうしていた。小さく息をしているうちにふわふわとした煙の味が薄れて、徐々に夕日に包まれた屋上の風景が戻ってくる。その光景は、目を閉じる前よりもずっと綺麗だった。光がきらきらして、まりっぺの綺麗な髪の毛を一本ずつ彩っている。ぼんやりとした光の影の境目がぐっと伸びて、私と混じり合っていくように思えた。
「ふふ、美味しい? これなら、吸ったことにはならないわ」
「ま、まりっぺ……ねぇ、もしかして、私のこと……」
もしかして、私のこと好きなの? そんなおこがましい疑念をねじ伏せるように、まりっぺは優しく笑っていた。
「あら、ごめんなさい。電話みたい」
――と、まりっぺの携帯から、どこかで聞いたことのある洋楽の着信音が聞こえる。まりっぺはひらひらと手を振ってキスの中断を告げると、後ろを向いて誰かと話し始めた。一瞬ちらりと盗み見た画面には、「A子」という文字が流れていた。
A子? うちのクラスにはそんな名前はいないし、まりっぺにきょうだいはいないはず。昔の同級生か、それとも幼馴染? 考えているうちに、顔から血の気が引いていくのが分かった。目の前にかかった霧がすっかり晴れて、意識が現実に戻ってくる。
「もしもし、A? ……うん、うん……ふふっ、なによ、それ。――」
じっと耳を澄ます。近況の報告とか、ファッション誌の話とか、夕ごはんのこととか。まりっぺは「A子」とそんなことを話していた。
薄く聞こえる声は確かに女のものだ。それで余計に腹が立つ。携帯灰皿の男以外にも、まだ仲のいい友達がいるってことだから。綺麗なまりっぺは、レベルの低い友達とは付き合っちゃいけないのに。B子とだってちゃんと距離を置いてるのに。どうして?
待ってよ。こんなの、まりっぺじゃない! まりっぺはもっと孤高で気高い存在なのに。
「C、ごめんね。ちょっと用事ができちゃった」
「う、うん。また……ね」
ねぇ、まりっぺ。Aって誰? どうしてそんなに楽しそうに笑ってるの? 私には、そんな顔したことないじゃん。まりっぺにそう詰め寄ったって、彼女の笑顔が困惑に変わって、きっとそれだけ。もうどうしようもない。
まりっぺは私にくれたタバコの火を消して、手早く身支度を済ませた。そして「その傷、ちゃんと手当したほうがいいわよ」と言って私の手のひらを指差してから、足早に屋上を去っていく。
残された私は、その場に立っていることしかできなかった。まりっぺが与えてくれた優しさが、夕日と一緒に沈んでいく。ピンク色の興奮がじわじわと冷えていく。春めいた凍えるような夕暮れの中で、私の青春は終わりを告げた。
まりっぺが退学した前後のことは、よく覚えていない。
おそらく、私にとっては突然のことだった。新学期になるまでその事実を知らなかったのだから。結局、最後までまりっぺから別れが告げられることもなかった。
先生は家庭の都合と言っていた。それは本当のことかもしれないし、誰かが――私はその時B子を疑ったけど――まりっぺの「非行」について密告したのかもしれない。ただ、まりっぺの秘密を知っているのは私だけだったはずだから、そういう窃盗じみた侵害を信じたくはなかった。
まりっぺが退学しても、私以外の学校生活は問題なく回っているようだった。まりっぺを勝手にライバル視していたB子は喜んでいたようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。トイレでまりっぺの悪口を言うことはなくなったけど、どちらにせよ、嫌なやつだ。
真実はどうあれ、それからまりっぺと会うことはなくなった。連絡先は知っていたけど、先延ばしにしていたら切り出しにくくなって、そのまま。まりっぺが私を疑っていたらどうしようと考えているうちに、昔のトーク履歴を見るのさえ嫌になった。
まりっぺのプロフィールのアイコンが七回変わった。今まりっぺが何をしているのかは、もう分からない。
でも、一回だけまりっぺが口移しで与えてくれたあの味を、まだ忘れられずにいる。
(後半へ続く)