「やっと終わりましたね。マキさんの部屋、荷物が多すぎます」
「ふふ、ごめんね。でも、手伝ってくれてありがとう」
昼前までにすっかり荷物を運び出した私たちは、引っ越しの大きなトラックの音が聞こえなくなるまで、なんとなく外階段の踊り場から空を見上げていました。少しずつ冬が追い出されて、明るい空気が風に乗って流れてくるのが分かります。マキさんは、この寒さと一緒に街を去ってしまうのです。
「今から、えびせんパーティーにしない?」
私は「えびせんですか?」と聞き返しました。えびせん、と聞いて私が思い浮かべたのは、でこぼこの模様の入った細長いスナック菓子か、小さい頃白鳥に投げて渡した大きなえび煎餅くらいです。マキさんは私の言葉を聞いて、バッグからしっかりとしたビニールのパックを取り出して私に手渡しました。
マキさんがゆっくりとしたリズムで「ロンシャーピエン」と呼んだつやつやした透明の袋には、赤いえびのイラストが描かれていて、透き通った薄くてまるいカラフルなチップスがたくさん入っています。赤、黄、緑……直径4~5センチメートルほどのつやのない えびせん は、袋を揺らすと固そうな音を立ててぶつかりあい、まるで安いプラスチックのおもちゃの詰め合わせのように見えます。
私の知っているさくさくのお菓子とはおよそ異なる重さと質感に、私は困惑していました。一枚だけ口に入れて奥歯でそっと噛んだら、きっと破片がいっぱい広がって、香ばしいえびの風味なんて楽しめないでしょう。
「これ、どうやって食べるんですか?」
「揚げるのよ。えびせんパーティーって、引っ越しの定番じゃない」
マキさんが言うには、引っ越しですっかり片付いた家を出る前にたくさん揚げ物をする習慣があるらしく、中でもこのシャーピエンは縁起が良い食べ物として人気なのだそうです。人気もなにも、私は引っ越しの定番なんて新居で段ボールに囲まれて頼むピザくらいしか知りません。次の入居者にちょっと迷惑な習慣だなと思いましたが、この えびせん が揚げるとどんな姿になるのかは、少し気になります。
「でも、さっき電気もガスも水道も止めちゃいましたよね」
「だから、古いフライパンとカセットコンロを残しておいたのよ」
確かに、部屋の中には今日明日に必要な手荷物と一緒に、私がずっと前に一緒に選んだ使い古したフライパンが置かれていました。この家で一番長く使われていた調理器具として、最後に大活躍するようです。
がらんどうになったリビングの真ん中に、カセットコンロと油が浅く注がれたフライパンが儀式のように配置されて、その周りを私たちが囲んでいます。床には、袋いっぱいのシャーピエンと一緒にコーティングのかかった深めの紙皿、割り箸、そして油を固める薬剤がまとめられていて、マキさん曰くこれがベーシック・スタイルのえびせんパーティーらしいです。
200度ほどに温まった油にそっと赤いシャーピエンを落とすと、薄くて固いチップスがあっという間に白くてふわふわの塊に変わります。気を抜くと見逃してしまうほど、一瞬のできごとでした。縁が波打って膨らむと同時に、中心まで熱が伝わって全体が真っ白な百合の花のように大きく広がるのを見て、マキさんがすかさず紙皿に取り上げます。
マキさんが目で「こうやるの。わかる?」と示したので、私も緑色のチップスを取り上げておそるおそる油に滑り込ませました。とろとろした油面に浮かび上がると同時に、また縁から白く膨らんで大きな花が顔を出します。私がその様子に見とれていると、マキさんがその花びらを掬って私の皿に移しました。
初めてのシャーピエンはあたたかくて、さくさくです。今まで食べたことのあるえびせんより、もっと軽やかで、香ばしいえびの香りが口いっぱいに広がります。もちろんまとわりついた油は少ししつこくて、胃がもたれてしまいそうですが、その食感のせいでお腹に溜まることさえ忘れてしまいそうになります。
それから、私たちはえびせんパーティーを楽しみました。油が熱くなりすぎないように注意しながら、チップスを滑り込ませては大きな花びらに変えて掬い上げます。知らない人が見たら、きっと魔法のように見えるでしょう。熱すぎるとすぐにシャーピエンが焦げて枯れた花びらのようになってしまうので、上手に揚がる温度はすぐに分かります。
ぐつぐつとシャーピエンを揚げているうちに蒸発した油がまとわりついて、身体を動かすたびになんとなくべたべたとした感覚がついてまわります。換気しても換気しても、部屋の中がすっかりくもって油の匂いが取れません。それでも、私たちはフライパンを囲んで淡々とシャーピエンを揚げては、まるでおしゃれなカフェで過ごしているみたいにおしゃべりし続けていたのです。ただ、不思議な時間が流れていました。
「マキさん、これって……?」
「よかったわね。縁起が良いわ」
ふと、できあがったシャーピエンを取り上げると、表面がところどころ金箔で覆われています。白い生地に散りばめられた白昼の星のような輝きを見ると、まるで美しく装飾された陶器の欠片のようです。マキさんが あたり だと言ったそのシャーピエンを口に含むと、なんとなく誇らしい気持ちになりました。
「すっかり、油まみれになっちゃいましたね」
マキさんが最後のシャーピエンを食べ終わった頃には、外は徐々に暗くなり始めていました。もう電灯さえないこの部屋で、火と油を囲むパーティーを続けるわけにはいきません。コンロの火を止めたマキさんは、くんくんと鼻を鳴らして「そうね。私たち、同じ匂いだわ」と笑いました。
「ふふ、昔は食べ終わったらこのまま家ごと燃やしていたらしいわ。刹那的で、とっても素敵」
マキさんは、固めた油をフライパンから剥がして手際よく紙皿や割り箸と一緒にまとめました。残ったフライパンは燃えないごみの袋に分別されていて、ここでお別れだと分かるとなんだか寂しい気持ちになります。本当は使った道具を全て捨てるのが慣例だけど、カセットコンロだけはもったいないから持って帰るわ、とマキさんは丁寧にコンロを箱にしまい込みました。
「じゃあ、今日はこのまま温泉でも行きましょうか。もう少し付き合ってくれる?」
いいですよ。 あたり を引いたんだから、もう少しだなんて言わずにずっと一緒にいてください。私が「ええ」と頷くと、マキさんは嬉しそうに微笑みました。
マキさんに「今日でこの街も最後だし、もう一度行ってみない?」と、まるで今思いついたように連れてこられたのは、山の上のロープウェイのりばでした。お昼に入ったファミレスでドリンクバーをミックスするのさえ飽きてしまった後のことでしたから、残っているのは乗客を見送る家族だけです。もうちょうど、今日の最終便が頂上へと向かうのを見送ることしかできません。
「少し遅かったですね」
「また明日来ればいいわ」
駅舎に取り付けられた大きなスピーカーから、古いカセットテープのような間延びした洋楽が流れ続けています。ふと、小さい頃に母親と歩いた商店街のことを思い出しました。まるでここだけが時間の流れから取り残されて、永遠にこの曖昧な薄暮に閉じ込められてしまったかのようです。
おかしなことですが、マキさんがロープウェイに乗るつもりがないのは分かっていました。ロープウェイに乗りたいのなら、ほとんどの人は最低限の身辺整理を済ませて直行シャトルバスで来るはずだからです。私たちのように自家用車で(しかもピカピカのレンジローバーで!)上がってくる人は、たいてい黒い喪服を着ていますし、しばしば純粋に景色を楽しみたいだけの乗客から疎まれています。
このロープウェイは全国でも珍しい開放型のゴンドラを採用していて、眼下に広がる風景がよく見えるように、左側にはジュラルミンの壁どころかガラスさえも嵌まっていません。そのせいか、素敵な景色に見とれてほとんどの人がゴンドラから飛び降りてしまうのだそうです。しかし、当の鉄道会社自身は特に問題視していないようで、柵やネットを設けて安全対策をするわけでもなく、むしろ「もっと近づいてみたくなる夜景」というキャッチフレーズで夜行便の宣伝さえ始めています。
私は前もこの光景を見たことがありました。ちょうど、マキさんと出会った日のことです。あの日もこんな春先の肌寒い夕暮れで、寂しげな顔をしたマキさんは、やはり最終便を見送って「次はきっと乗りましょうね」と言っていました。一人が飛び降り、また一人が飛び降り、まるで焼却炉に運ばれるペンギンの群れのような乗客を運びながら、ロープウェイは淡々と上へ登っていきます。
どうしてマキさんは「次は」だなんて守る気のない約束をしたのでしょうか。明日、はいつ来るのでしょうか。マキさんはずっと向こうの景色を見つめたまま、そっとため息をついて私の手を握りました。