DAISOのボタン式南京錠を買った。倉庫や宝箱をロックするために買ったのではなく、そこに激安フィジェットトイがあったというだけだ。ボタンを押したり戻したりする感覚が指に響いて心地いい。
このような錠前は、一般的にプッシュボタン式南京錠とか、プッシュ式ロックと呼ばれている。8~10個のボタンが前面に並んだ南京錠である。多くの製品では、パッケージに4桁の数字が印字された小さなタグが同梱されていて、その番号のボタンを押せば解錠できる。この番号は製造時点で物理的に固定されているが、最近では桁数も含めて自由に暗証番号を変更できると謳う製品もあるようだ。
このプッシュボタン式南京錠は、いくつかのメーカーでは「デジタルロック」という名前で売られているが、これはスマートロックでもなければ電気すら使わない機械式の錠前である。付属の暗証番号を4桁の10進数ではなく、ボタン1個をそれぞれ1bitの情報量を持つ2進数だと捉えれば、ある種デジタル的かもしれない。
例えば、10進数のように示された「2357」は、8桁のプッシュボタン式では8から1に向かって「01010110」と表現できて、これを2進数として10進数に戻すと「86」になる。8桁の2進数は10進数で0~255なのだから、プッシュボタン式における10進数4桁の暗証番号は本来10進数3桁の密度しか持っていない、と言ってもよい。
とはいえ、メーカーも「デジタル」という名前でその2進数的性質を強調したかったわけではあるまい。実際のところは、その当時の「デジタル」という言葉の先進的なイメージにあやかったものだろう。ちょっとしたセンサーとヒーターが載っただけの家電にマイコンとかエーアイとか付けて売るのによく似ている。今から新商品として発売するなら「ビットロッカー」なんていいかもしれない。
さて、プッシュボタン式と異なり暗証番号を10進数のまま扱える方式の南京錠として、ダイヤル式南京錠がある。ダイヤル式南京錠は、前面や側面に0~9の数字を刻んだホイールを3~6枚程度並べた南京錠である。多くの製品では暗証番号を変更でき、しかも選ぶ数字には制約がない。数字のパターンはN枚のホイールに対して10Nであるから、4桁なら1000通り、6桁なら10万通りと直感的な複雑さを持っているわけだ。
一方、プッシュボタン式南京錠はどうか。まず、ダイヤル式がorder-sensitiveなのに対して、プッシュボタン式はorder-insensitiveである。つまり、パッケージの番号の通りにボタンを押さなくとも、組み合わせが一致していれば解錠できる。これは暗証番号の複雑さを大きく低下させてしまう。しかも、プッシュボタン式南京錠の見た目から想像できる直感的な組み合わせよりかなり少ない。
プッシュボタン式における数字のパターンはN個のボタンに対して高々2Nで、桁数が決まっているならその半分以下になる。DAISOで買ったものと同じ特徴の南京錠なら、8個のボタンのうち4個を押すパターンはたったの70通りしかない。8個のボタンを押すなら28で256通りあるはずだが、4個使うという制約で3分の1以下になってしまうわけだ。仮に10個のボタンから4個を選ぶとしても、4桁のダイヤル式南京錠が10000通りであるのを踏まえれば、その力は〇割二分一厘にも満たない。
仮に桁数が自由に設定できるなら、2N通りをそのまま使うことができるので、直感的な複雑さに近づきそうだ。Malloryが総当たりを試すときに暗証番号が4桁だと知っているとは限らないから、実用上は2N通りと考えてもよいかもしれない。しかしその場合でも、10個のボタンを使ったプッシュボタン式南京錠は4桁のダイヤル式南京錠の10分の1の強さしかない。
では、なぜわざわざプッシュボタン式南京錠を使うのだろうか。プッシュボタン式だけが持っている利点として、鍵を挿したりダイヤルを回す必要がないため、ボタンの配置を指で確かめれば南京錠を直接見ずとも解錠できる1という点がある。暗がりで解錠する必要があるとか、目線より高い場所に錠前を設置する場合には有利なわけだ。
それでも、どれだけ高く見積もっても3桁のダイヤル式と同じ強さのプッシュボタン式南京錠を選ぶのはまだ奇妙に感じる。この選択を掘り下げるには、そもそも南京錠に求められるセキュリティは何か、というのを考えなければならない。
南京錠はそれ一つで破られないセキュリティを実現するものではなく、破るのにかかる手間や時間を上乗せして試行を諦めさせる、というのが主目的である。例えば、欧州標準化委員会における南京錠のセキュリティ基準(CENグレード2)によれば、低温下で8分間の破壊試行に耐えれば最高等級に値するとされる。
つまり、守りたい対象に錠前が付いていて、かつ開錠のコストが大きいと示せれば十分ということだ。すると、プッシュボタン式における暗証番号のパターン数が直感的に分かりにくいという点がプラスに働く。3桁のダイヤル式南京錠が1000回試せば開くと思う人よりも、10個ボタンのプッシュボタン式南京錠が高々1024回で開くと思う人の方が少ない。ボタンが10個あって4桁の暗証番号なら、直感的には10000通りはありそうに見える。
また、南京錠を利用するケースでは、事後に錠前が壊れていることが分かれば十分なケースもあるだろう。この場合は、
言い換えると、南京錠のセキュリティは適切な知能と開錠の意思の組み合わせに弱い。まず、不正に解錠する意思がそのコストを超えなければ錠前は破られない。そして、錠前や周囲の環境についての知識はこのコストの壁を下げる。十分に価値の高い財物を守っている南京錠が、誰にも見られず即時にボルトカッターで破錠できる、あるいは怪しまれずに数十回の試行で解錠できると知られたなら、もはや南京錠はその意味をなさない。
たった70通りのプッシュボタン式南京錠に錠前としての意味があると考えてしまうのは、十分に成熟した人間社会が見せる幻想なのか、直感を重視する人間の動物的な勘違いなのかは分からない。いずれにせよ、その幻想や勘違いがなければ存在しえない奇妙なアイテムなのは確かである。高々数億から数兆通りの鍵パターンしかないシリンダー錠で家を施錠しているのも、何らかの上位存在から見れば組木細工を解くサルと同じかもしれない。
ちなみに、このDAISOのボタン式南京錠は70通りどころではなく数秒で開いてしまう。プッシュボタン式南京錠はボタンの開閉でシャックルを押さえる機構を持っているので、解錠レバーを半分噛ませておけばボタンの方が引っかかって自然に解錠パターンが浮き出てくる。鍵を挿して解錠するシリンダー式と同じようなイメージで、原理としてはピッキングと変わらないわけだ。
しかし、こういうフィジェットトイは、デザインをもっと可愛くしておもちゃコーナーに置いた方が売れると思う。